Contemporary Buddha 28 ~The sky 2
私たちが、
「私は~。」とか、
「私が~。」というような考えを、
つまり、
「私」という考えを休むとき、
事態は、
ただ起きて、
ただ過ぎ去ってゆきます。
空を行く雲のように。
たとえ、
事態が自分にとって面白くないものであったとしても、
「私」はそこにないがゆえに、
「私」が苦しむことはありません。
私たちが、
「私」を考えることを休むとき、
事態は流れる雲となり、
私たちの心は大空となります。
空はすべての雲を自分のうちに包みますが、
雲に汚されることはありません。
いえ、
空は雲どころか、
恐ろしい嵐や雷にさえ砕かれることはありません。
空はけして汚れず、
けして壊れないのです。
私たちが、
「私」という思考を休むとき、
私たちの心は大空となります。
人間にとって、
「私」という思考は、
もちろん必要なものであるでしょう。
「私」を考えられることは、
生物の進化において画期的なことであったでしょう。
しかし、
それは、
いつもいつも抱えていなくてもまた、
よいものであるのです。
荷物は必要なとき持ち、
必要ではないときは下においてもよいのです。
私たちは、
「私」という思考の使い方に
まだ慣れてはいないのかもしれません。
私たちが、
「私は~。」とか、
「私が~。」というような考えを、
つまり、
「私」という考えを休むとき、
事態は、
ただ起きて、
ただ過ぎ去ってゆきます。
空を行く雲のように。
たとえ、
事態が自分にとって面白くないものであったとしても、
「私」はそこにないがゆえに、
「私」が苦しむことはありません。
私たちが、
「私」を考えることを休むとき、
事態は流れる雲となり、
私たちの心は大空となります。
空はすべての雲を自分のうちに包みますが、
雲に汚されることはありません。
いえ、
空は雲どころか、
恐ろしい嵐や雷にさえ砕かれることはありません。
空はけして汚れず、
けして壊れないのです。
私たちが、
「私」という思考を休むとき、
私たちの心は大空となります。
人間にとって、
「私」という思考は、
もちろん必要なものであるでしょう。
「私」を考えられることは、
生物の進化において画期的なことであったでしょう。
しかし、
それは、
いつもいつも抱えていなくてもまた、
よいものであるのです。
荷物は必要なとき持ち、
必要ではないときは下においてもよいのです。
私たちは、
「私」という思考の使い方に
まだ慣れてはいないのかもしれません。
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