Contemporary Buddha

Contemporary Buddha 30 ~風の音、虫の声





その人は尊敬できる人でしょうか?


その人の判断力は信頼に価(あたい)するもので

しょうか?



そうであるならば、


あなたにたいするその人の批判を聞くことは

利益をもたらしてくれるでしょう*。


*(この場合の利益とは、
金銭面だけではなく、精神面での利益もふくむ。)




しかし、


もし、

そうでないなら、


あなたにたいするその人の批判は、


風の音や、

虫の声ほどの意味もありません。



あなたの、


怒りや、

悲しみにはとうてい価(あたい)しないものです。























Contemporary Buddha 29 ~私




日常、

私たちは、


「私の身体」の一部を作っている、


筋肉のタンパク質や、

骨のカルシウムまでふくめて、


「私の身体」であると考えています。





そうであるならば、


私のしてきたすべての経験を、

「私ある。」

と言っても、


おかしなことではないのではないでしょうか?



それは、


筋肉におけるタンパク質や、

骨におけるカルシウムと同じように


「私」の人格の一部であるのですから。





逆に、


何の経験もしたことのない心が、


「私」というような、


確固とした人格を形成することが

できるでしょうか?



できないだろうと思います。




「私」とは、


「私」のしてきた経験すべてをふくめて

「私」なのです。



つまり、


私の接してきた、


すべての存在、

すべての他者もまた「私」なのです。






つけ加えるならば、



私たちがしている経験は、

限られた経験です。


この宇宙のあまりにも小さい一部分でしかありません。



しかし、

その出来事は、


宇宙のすべての現象とつながって成り立っています。


宇宙のほかの現象と切り離されて成り立つ存在など

なにひとつないからです。






「私」を構成している内容をふくめて、

「私」と呼ぶなら、



世界のすべてが、

宇宙のすべてが私です。







他者を愛することは、

自己を愛することに他ならないのです。


















Contemporary Buddha 28 ~The sky 2






私たちが、


「私は~。」とか、

「私が~。」というような考えを、




つまり、

「私」という考えを休むとき、


事態は、


ただ起きて、

ただ過ぎ去ってゆきます。



空を行く雲のように。





たとえ、

事態が自分にとって面白くないものであったとしても、


「私」はそこにないがゆえに、


「私」が苦しむことはありません。




私たちが、

「私」を考えることを休むとき、


事態は流れる雲となり、

私たちの心は大空となります。




空はすべての雲を自分のうちに包みますが、

雲に汚されることはありません。


いえ、

空は雲どころか、

恐ろしい嵐や雷にさえ砕かれることはありません。




空はけして汚れず、

けして壊れないのです。



私たちが、

「私」という思考を休むとき、


私たちの心は大空となります。








人間にとって、


「私」という思考は、

もちろん必要なものであるでしょう。


「私」を考えられることは、

生物の進化において画期的なことであったでしょう。



しかし、


それは、

いつもいつも抱えていなくてもまた、

よいものであるのです。



荷物は必要なとき持ち、

必要ではないときは下においてもよいのです。






私たちは、


「私」という思考の使い方に

まだ慣れてはいないのかもしれません。





















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